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2008年1月30日 (水)

上げると言うこと

昨日のエントリーに続いているんですが、リリーフランキー氏のおでんくんという作品が柳家小ゑん師匠の新作落語「ぐつぐつ」に似ている件。
簡単な日本語で書くとパクった?件についての私の考えを以下に書こうと思います。
その前に、以前にブロガー達がこの件について考えを書いている物を見つけましたので、参考にしてください。
http://blog.goo.ne.jp/virginia-woolf/e/79c94f2775eedc4b98266c26dd42fde9

落語という著作物の特殊性と著作権について、法律家でも落語家でも無い者ですが自分の考えを書いてみたい。
新作落語が古典化するには、自分以外の演者によって口演された時ではないかと思う。
ここでいう古典化とは歴史に残るという意味で使っている。
古典落語は江戸時代から多くの演者によって語り継がれ、それとともに研ぎ澄まされて現在演じられている噺になっている。
作者が分かっている噺を例にすると、「芝浜」を圓朝が創った後、誰も語り継がなければ今、この世に「芝浜」という落語は無かったかもしれない。
このように、落語は著作者以外の演者によってより多くの世間に広められる。これにより、記憶され、記録され、さらに新たな演者によって、研ぎ澄まされて新たな客と新たな演者を生んでいくスパイラルを生む。落語はこうして生きてきた。
小説は作家のものであり、楽曲は作曲家、詩は作詞家のものであるが、落語はこれらの著作物と異なるところだ。

そんな落語ですから、著作権は有るような無いような。
他の著作物と違うのだからパクろうがどうしようが勝手にしていいのか。
落語の世界ではどうなっているのか。
例えば演者はやれば受けると評判の作品、人気の作品を演じる場合、勝手に高座で演じているのかというとそうではく、落語の世界には著作権法の出来る前から、或るしきたりが有る。
新しい落語を覚える時、稽古をするわけですが、師匠がその根多を持っていれば師匠に、持っていなければ別の師匠や先輩方に稽古を付けてもらう。そして稽古を付けてもらった師匠からOKが出ないと高座では演じる事ができないというしきたり、ルールだ。
このOKを出す事を「上げる」と言う。
上げるという許可が出ないと演じられない。
今の新作落語の世界でも著作者の噺家さんに上げてもらう事で、他の演者によって演じる事ができて、該当作品の別の魅力に出会う事もできるのです。
上げる為の基準はどうなっているのかわかりませんが、人様にお金を頂戴して見て貰えるだけの芸かどうか。原作のコピーではなく創意工夫があるか等はあるようです。落語の世界では、著作者の著作物に対する権利以上に、作品がより多く、より良くなって世間に出て貰う事の方に重きを置いているように思います。
だから、新作落語という著作物の特殊性を逆手にとって法廷戦術で勝てると判断してパクった。結果パクった側が法律上勝ったとしても、落語の世界では許せない事なのです。
他の業界が新作落語を使う場合は、自分たちの世界の理屈、常識にはめる前に、落語の世界のしきたりも尊重して事を運ぶ必要があるのではないか。
落語家が自分の弟子以外でも稽古をつけたり、他人の落語を勉強して高座にかける姿勢の根底には、オリジナルへのリスペクトの心があるから、今でもルール違反無しに続いているのであろう。

「おでんくん」の場合は、事前に「ぐつぐつ」という落語を聞いて面白かったので、子供にも喜んで貰えるようにこんな絵本にしてみたいのですが・・・
と小ゑん師匠に相談していれば、師匠は大賛成で上げてくれたのではないかなと思います。

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